昭和52年03月06日 佐田家霊祭
只今、合祀祭に併て、五十日祭を滞りなく奉仕させて頂きました。霊様のお喜びと申しますか、神様の喜びというか、そういう喜びに触れさせて頂いて、特に霊祭を奉仕させて頂く度に、これは実感として感じる訳ですけれども。信心をしておれば、一年一年有り難うなってくると仰せられるのに、十年信心しても、五十年信心しても、一向有り難くならない。おかげは頂いてはきたけれども、有り難くならない。
と言う事は、いかに教えというものを本気で行じてないかと言う事。いうならば教えが血や肉になるに従って、有り難うなっていかなければならないように、もう仕組みが出来ている。教祖様のみ教えというのは、本当にほんとに諸々頂こうと思うたら、誰でもできる難しい、言うならばとてもそれは、人間業では出来んと言った様な事はひとつもない。そこにお道の信心があるわけだと思うんですけれども。
あまりにいうなら見易い、そら頂いてはおる、聞いてはおるけれども、それが血や肉になっていない。血や肉になるにしたがって、有り難いと言う事になってこなければならない。例えば今日分からせて頂いた事は、霊様の例えば十日、十日の供日には、御祭りをさせてもらい。そして百日、一年、それから三年、五年、十年、そして十五年、二十年というふうに、五年五年にまあ御祭りをさせてもろうて。
五十年の式年祭帰幽祭を奉仕させてもらう、式年祭を奉仕させてもらう頃には、御霊ながらも例えば後は拝みてがなくても、奉仕してもらう者がなくっても、独り立ちができれるくらいな御霊の、いうならば位も、喜び安心の度合も深うなっておかねばならない。それを分かりやすく言うとね、例えばなら五十斤なら五十斤の荷物を持ちます、五十斤なもんですから、始めのあいだは何ともなしに軽々と抱えますけれども、それが段々時間が経つにしたがって重たい、ちょっと一服手を変えなけりゃおられない。
ちょいとそこに置いて一服しなければ、たった五十斤でも重たくなってくる。これと同じです。始めの間は霊様がもっておる、そのちょうどなら十日十日というのは、そういう一服しなければならない、ちょっと荷物を置いてちょっと一服しなければならないというような供日というのは、そういうものなんである。そうしていくうちに段々力も頂けて、まあ今まで十日ごしに休みよったつが二十日でよいようになり、一ヵ月位はもう楽に持てるようになり。
段々御徳を頂いてそれが自分のものに消化されてしまう時に、それがいうならば、持っておるか持っていないか分からないくらいな楽なおかげを頂くというのも、どう言う事かというと、信心しておれば一年一年有り難うなっていくという、その有り難いという心が一切を消化する。一切をいうならば、有り難い有り難いで受け止める事が出来る、というほどしのものが血肉になっていくこと。
まあほんとにこんな不思議なことがあるだろうかと思うくらいに、もう事実あるからね。これはもうかよいなしに分からない世界に私共は、挑戦していく訳ですけれども。ここまでは分かっておる、これから先も大体こうだと言う事が分かっておる。今言うようにもうとにかく有り難くなっていくことの繰り返し、限度がない限りがない。だから限りない、無尽蔵のおかげを頂いて行くと言う事になるのです。
昨日は壮年部会でいろいろ有り難い話を聞かせてもらいましたが、久留米の石井さんが話をされる中に、ほんとにその自分の心の中に、自分が願うたことが成就することは誰でも有り難いけれども、その反対になった時も有り難いのだと。もうそこのところが最近分からせて頂いたら、第一家内が二目見るように変わりました。子供達が変わっていく事には驚きます。お商売の上にも、やはり同じ働きが表れておる。そしたらね神様からね、「もう信心などんとは要らんぞ」とお知らせを頂いたと。
私はそれを聞いてから素晴らしいと思うた。だからなら私共が中途半端な者が信心は要らんち言うてから、ほほう信心なせんでも、もうそのおかげ頂かれるだろうか、修行は要らんのだろうかというふうに、ちょっと誤解を招くような表現ですけれども。段々お話を頂くに従って、成程もう信心の勉強は要らん、もうこれは最高なのであって、最高の教祖はそこのところを、あれもおかげであった、これもおかげであったと分る様になると真実の信者だと。
もう真実の信者になったら、もう一切がおかげ、それを私の言葉で言うと、一切が神愛と言う事になる。だから一切が神愛と分かっただけではならない、実感としてそれが頂けれる状態。今日林さんという人を例をとって話をしたんですけれども、昨日風邪を引いてどうも頭が痛い寒気がする咳が出る。そこでおかげの泉をちょっと開かせて頂いたら、二十五号が手に付いた。それでそこを開かせて頂いたら御理解に、神様頂きますという心あらばあたることなしという御理解だった。
食べ物だけではない、一切の事柄でもどんな難儀な問題であっても、もう神様頂きますと合掌して受ける気になりゃ、もう障ることもないんだと頂いた時に、もうびっくりしたというならば。そういう教祖のお言葉親先生のお言葉は、なんという素晴らしい事だろうかと。これはもう風邪が引いて明日朝参り出来ないと、そんな段じゃない。頂きますと言う事あらば障ることないと仰るから、どういう場合であっても、あくる日はもう風邪が抜けてしまったじゃないけれども有り難い。
風邪が抜けてしまった訳じゃないけれども、寒気もなからなけりゃ熱もない。というほどしのおかげを頂いたと言うて昨日お届けをしておりましたが。信心はこれだとこれをしかも、いよいよ育てていくより他にはないのだと。昨日キヨシさんが、もういよいよ自分の信心の心境を話されておる中に、自分の心の中にあれもおかげこれもおかげという心の状態、天地に起きてくる一切が神愛だと受け止めれると言う事は、もう神様と一体になっておるというような姿だと。
そこに例えば、霊様の浄化された霊様が、バアーと自分の心に、これは説明じゃ分からんという。「それは、キヨシさんほんなこてそげんじゃんね」だから、体験したものじゃなきゃ分からん。昨日も話しておられたが先日も、このおばあちゃんが亡くなられた時にその実感を頂いたけれども、昨日もこれは佐田のおばあちゃんだろうか、うちの母だろうかとも、それこそこん中に一緒に入ってくるものを感じたと。
と言う事はそんならおばあちゃんの御霊も次第次第にそれと一緒になれれる、キヨシさんが水ならば霊様も水なっておられるから一緒に入っていけれる道理なんです。それがそのまま神様に通うていく。私はそのキヨシさんの話を聞いたら、これはあのただ信心には勉強は要らんと、信心の勉強はもうせんでもいいと神様から頂いたと言う様な事が、あの開口一番でしたから、こんな事言いよると信心の程度の低い者は、信心の怪我をするぞと、私思いながら迷惑しながら頂きよったらね。
神様から「運命宿命天命」と言う事を頂いた。今朝からの御理解がそれでした。人間の運命というものは、人間の心がけ次第では、いわば変えていく事ができる。けども宿命というのは、もうそこに宿りきっているものであってどうにも仕様がない。例えば私と親教会の場合なんか、状態というものは、これは一つの宿命じゃろうなと、私が言っているようなものなんだと。
だから信心とは運命も開かれるが、宿命そのものも神愛として受けると言う事に素晴らしいことが起こってくるわけです。そこには天命だけしかない。天命というのはまあ芝居のセリフなんかで申しますね、敵討ちなんか天命と思い知ったかと言った分です。天命とは、神様の思し召しと言う事ね。それがなら一切を神様の御神慮だ、神愛だ思し召しだとして頂けれる世界が天命の世界。私はこの三つのことを頂いて、清さんほんと素晴らしく、あんたその境地が素晴らしいじゃあないか。
だからほんとに家内が二目見るように最近変わった、子供達が変わった、仕事の上にもおかげと思わにゃおれならない働きが起こっておるというのです。だからそれが、なら石井商店なら石井商店だけではない、石井一家だけではない、それが例えば二十重に広く、そんならば大きく言うならば、世界清め運動、和賀心時代を世界に広げるという程しの大きな、例えば願いにも祈りにもなっていかねばならない時に、信心の修行というものは、限りが無いものだ。
有難くなっとるけれども、その百の有難さが千にもなり、千の有難さが万にも億にもなっていく程しの願いというものがかけられて生涯かけて、いやあの世に行ってもその事に取組んでいけれるという程しのものである。信心というのは一年一年有難くなってくると言われるのに、五十年たったちゃさほどに有難くないというなら、おかげだけはありがたいけれども信心の有難さが分かってない証拠であり、教えが如何にも血に肉になっていないかと言う事を悟って頂く。
しかも教えというものは、今合楽理念をもって説き、合楽理念をもって私共がそれに初志あたっていく限り、もうほんとに教えが楽しゅうして、有り難うして、しかも愉快でもう有り難う、それが行じていけれる、もうここは絶対の道だと。今合楽で言われておる合楽理念なんか、いよいよ素晴らしさを最近、また今日の御霊様を頂いて、感じさせて頂いたんですけれども、なら今日の御霊様がね、ほんと言うたら五十日祭には、まあこうして一服された。
けれどもひょっとしたら三十日祭くらい時でも、もう置かにゃおれない、置けない時があったかもしれない。百日祭まで、まあもてんかもしれない。そこを私共が持って上げれる、いわば遺族の者の、いわゆる真心の信心の奉仕がいかに必要かが分かる。もうほんとう言うたら、五十年経った時には、神様のその前に出られる程しの、いや神様と一体という程しの、ただ有難い有難いの権化のように消化しておかねばならんのだけれども、進んどなければならんのだけれども。
それが例えば、普通は出来ないのが、信心が有難うなるのが普通だけれども、有難くなるのが遅々としておると言う所と同じ理屈であると私は思います。だからそういう意味で、いわゆる霊祭とかは、旬日祭というものが、また日々の奉仕と言う様なものが如何に大事か、如何に大切かと言う事を実感します。もう私は今日は、とてもとてもそりゃもうほんとに不思議で不思議でならん事があるんです。
まあ皆さんが信じなさるかどうか知らんですけれども、もう私は今朝から、もうそれこそ骨がモリモリいうごと痛いとです。だからこりゃ風邪ひいたっちゃろうか、もうそれは、今朝から久富先生と繁雄さんと二人でもう痛いごと揉んでもらった、お風呂の中でも揉んでもろうた。この御祭りを仕える間もずうと痛んだ。一番最後にお礼をする時に痛みがないんですよ。そん時にはっと分からせて頂いたのが、今の御理解です。ははぁ体がこんなにムリムリ言う様な、荷物を担いでおるようにあるんだなと言う事です。
だからこれはいつの場合でもね、清さんじゃないけれども、こちらが浄化しておる時に御霊様の喜びとか悲しみとか苦しみなんか、ばぁとこれに受けられれるひとつの状態というのが、私の心の中にあるわけだろうと思うんです。もうどげん考えても、不思議でたまらんです。そういう働きがやっぱあるとです。けれどもどんなになら御霊が苦しんでおっても、その荷物ひとつ持ってやる事、出来ないような遺族であっては、ほんとに悲しい事だと言う事です。
どうでもひとつ信心がしとけば、一年一年有り難うなってくると仰せられるから、はたして一年一年にどれだけ有り難うなっていっておるか、なっていないというならば本気で教えに取組む修行というものがなされていないのだ。そしていうならば、あれもおかげであった、これもおかげであった、石井清さんがひらいておられる境地が、私共の日常の生活の中にひらかれてくる時に、一切が有り難い有り難い。
いうならそりゃあもうそれで良いかというと、それがもっと偉大な力、偉大な有り難さになっていく事のための精進は、もういこれは限りがないことだ。ここはひとつの幸せの第一線上に清さんは出られたと言う事。これを進めていけさえいけばもう限りない不思議な不思議世界にも入っていけれるし、または不思議ないうならば天衣無縫のおかげとでも申しましょうか、必要なものが必要に応じて頂けてくる。
人間のいうならば、普通のいうならば、徳とでも申しましょうか、神徳人徳、物の徳、金の徳、そういうさまざまな人間幸福の条件が、全てが足ろうてくる程しのおかげが頂けれる力を目指して、ただおかげを目指すのではなくて、そういう信心を目指して行く事。今日の例えば御霊様なんか、そう言う様な所を大体においてマスターしておられたと言う事です、合楽の信心を。ですからこうしてこうなっりゃこうなる事が、ちゃんと分かっておられる訳です。
ですからその精進をなさる限り、御霊様のいうならば安心の度合も喜びの度合も、いよいよ高められて、いうならば安心の御霊としておかげを受けられる事ができるだろうと私は思います。今日はそういう意味での合祀祭であり、または旬日祭でございました。残らせていただいておる遺族の方も、それに連なるこうして同心の者も、いわば御霊様のそうした御信心にあやからせて頂いておかげを頂きたいものです。
どうぞ。